松山ホストライオンズクラブは結成から 60年が経過しました。 その間「10年史」、[20年史]、[結成30周年記念特集]PR誌、「40周年記念誌」、「50周年記念誌」と、10年ごとに活動を記録するとともに、活動を検証し、次代に引き継ぐために、区切りをつけてまいりました。 さて設立当時の話は、「結成30周年記念特集」PR誌のチャーターメンバーを囲んでLC30周年記念座談会から紹介します。
発会式は昭和28年10月5日伊予銀行の会議室で行われました。昭和28年の春頃、経済人6、7名で松山経済懇話会を作っていました。食べるものが何もない時代で、毎月15日に缶詰などを持ち寄り、なんでも話をしようという会でしたがそのうち集まって食べるだけではいかん、何かいい会はないものかということになりました。そこで、当時懇話会に来ていた加藤昌助さんが取引の関係で神戸に行きそんな話をした際同業の松田俊治さんから松山でライオンズクラブを作ったらどうかと勧められました。それで松山へ帰ってきたものの、プロ野球の「西鉄ライオンズ」でもなかろう、みんなで行って様子でも聞いてみようということになり、あらためて神戸に出かけることとなりました。これが始まりです。
その後、神戸ライオンズクラブの指導をうけさらにライオンズの極東代表であったフィリピン人のジョージ・バーレネンゴア氏も松山を訪れ、種々骨折ってもらい、なんとか昭和28年10月5日の発会式に漕ぎつけました。ジョージさんのことで、いまだに印象深く残っていることがあります。当時日本人の戦犯とされた人々が多数、まだマニラのモンテンルパ収容所に残されていました。そこで、せめてフィリピン人の心証を良くしておけば、戦犯といわれる人たちの処置にもなにかの変化があるのではないかという、はかなくも、さもしいのぞみもなくはありませんでした。これは日本人として忘れてはいけないことだと思います。
当時は、もとより日本語で書かれたライオンズの会則などはありませんでした。送られてくる書類もすべて英語で書かれておりました。日米文化センターの方に頼んで訳してもらっていました。あの頃事務局らしい事務局もなかったので、英語の翻訳や英訳を人に頼んだほかは、ほとんど会員の手でやっていました。それと、当時は戦争中ロータリークラブが解散したままの状態で、ライオンズは松山で唯一の国際的組織でした。
チャーターナイト
チャーターナイトは昭和28年12月12日にオランダ領時夫妻を迎えて伊予銀行本店のホールで行われました。例会会場は最初は愛媛新聞社でした。昭和29年からは萬翠荘になりました。第5回全国大会(京都)
昭和34年の第5回全国大会(京都)は翌年から日本のライオンズの組織が東西にわかれることになり、当時の地区幹事が熱心にやったため、すばらしい全国大会になりました。時代祭を見て、二条城で園遊会をしたりして、もっとも印象深い大会でした。ライオン帽子をかぶっての街頭行進は、翌年の広島大会からでした。
発会当時はいろいろ不自由なこともあり、手探り状態でしたが、みんなが気持ちを合わせて、結構楽しくやりました。現在は国際協会の会則や付則に準拠して、手っ取り早く枠の中でやりがちになっています。クラブとしての基本は守りながらも、柔軟な姿勢で独自の活力ある活動をやってもいいと思います。
これからも色々なことがおこると思いますが、友愛を深める奉仕の活動をつづけながら、一歩一歩、歩みを進めていきたいと思います。